10月の「今日 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■久光退京へ 【京】文久2年閏8月21日−薩摩藩国父島津久光は、破約攘夷は無謀・幕府の旧政改革と武備充実が先、など12項目にわたる長文の建白書を関白近衛忠煕に提出しました。 江戸から閏8月7日に帰京した久光は、9日に参内して復命し、公武合体を進言していました。しかし、京都においては長州・土佐の尊攘激派の勢いが伸長し、朝廷内でも公武合体派の近衛関白忠煕・忠房父子(薩摩藩とは姻戚関係にある)・青蓮院宮らは激派に押されていました。久光の2度目の建白は以下に要約する通りです。
久光は、この建白(12条目)において、長州藩の破約攘夷論への反対を明確に表明しています。会津藩の京都守護職にも反対していますね(7条目)。寺田屋事件時に、久光は滞京・京都警衛の勅命をもらっていますから、会津藩にライバル心をもやしてもいたしかたのないところです。実際、この後、薩摩藩自らを守護職に任命するよう運動を展開します・・・・(老中や会津藩の猛反対で失敗します)。 久光一行は翌々日の23日に帰国しますが、この二度目の建白書を提出した時点で、すでに激派に優勢な政局に見切りをつけており、帰国の意思を固めていたともいいますし(『徳川慶喜公伝』)、二度にわたる建白に効果がなく、却って朝議が長州藩論に傾くのをみて、帰国を決めたともいいます(『維新史』)。ちなみに大久保一蔵(利通)の日記には、22日の項に「明日御立故混雑」と記してあります。 参考>『徳川慶喜公伝』2、『維新史』三(2003.10.21) 関連:■テーマ別「勅使大原重徳東下」 「公武合体派勢力の後退と島津久光の退京」■薩摩藩日誌文久2年 |
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