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文久2年閏8月21日(1862.10.14)
【京】島津久光、攘夷は無謀との長文建白書を関白に提出/

■久光退京へ
【京】文久2年閏8月21日−薩摩藩国父島津久光は、破約攘夷は無謀・幕府の旧政改革と武備充実が先、など12項目にわたる長文の建白書を関白近衛忠煕に提出しました。

江戸から閏8月7日に帰京した久光は、9日に参内して復命し、公武合体を進言していました。しかし、京都においては長州・土佐の尊攘激派の勢いが伸長し、朝廷内でも公武合体派の近衛関白忠煕・忠房父子(薩摩藩とは姻戚関係にある)・青蓮院宮らは激派に押されていました。久光の2度目の建白は以下に要約する通りです。
  1. 朝議を確立すること
  2. 九条前関白を賞罰すること
  3. 匹夫の論は過激にすぎ、己の名利の為にするものが多いため、みだりに採用しないこと
  4. 親王・摂家・公卿がみだりに匹夫と面談しないよう厳しく取締まること
  5. 青蓮院宮を還俗させ、政事に参加させること
  6. 公卿の幕府が異議を申し立てても朝議動揺しないようにすること
  7. 御所六門の警護を撤廃し、ニ、三の大藩に警護させ、会津藩の京都守護は免じること
  8. 幕府は、命じられたことを請けた事項を遅延し勝ちなので、度々催促すること
  9. 一橋慶喜・松平春嶽は登用されたが、彼らに政権がなくては(老中らの抵抗により)勅命通りの変革は不可能であるので、政権委任を、幕府に内命を下すこと
  10. 春嶽上京の猶予が請願されているが、上京を督促し、上京の上は攘夷について謀議すること
  11. 諸大名の中には縁故を求めて国事周旋を願う者が多いが、心底からの勤王なら内命を下してもよいが、目下幕府は大政変革中であり、諸大名の上京は必要はないので、その旨沙汰を下すこと
  12. 攘夷は重大事だが、幕府はすでに外国と条約を交わしており、謂われなく破棄を命ぜられても遵奉は困難であり、その結果は、朝威にもかかわるだろう。また、太平による驕惰の弊風が改まらない限り、攘夷の決行は全くの無謀である。むしろ幕府に旧政を一新して武備を充実させるよう、支援をすること
<ヒロ>
久光は、この建白(12条目)において、長州藩の破約攘夷論への反対を明確に表明しています。会津藩の京都守護職にも反対していますね(7条目)。寺田屋事件時に、久光は滞京・京都警衛の勅命をもらっていますから、会津藩にライバル心をもやしてもいたしかたのないところです。実際、この後、薩摩藩自らを守護職に任命するよう運動を展開します・・・・(老中や会津藩の猛反対で失敗します)。

久光一行は翌々日の23日に帰国しますが、この二度目の建白書を提出した時点で、すでに激派に優勢な政局に見切りをつけており、帰国の意思を固めていたともいいますし(『徳川慶喜公伝』)、二度にわたる建白に効果がなく、却って朝議が長州藩論に傾くのをみて、帰国を決めたともいいます(『維新史』)。ちなみに大久保一蔵(利通)の日記には、22日の項に「明日御立故混雑」と記してあります。

参考>『徳川慶喜公伝』2、『維新史』三(2003.10.21)
関連:■テーマ別「勅使大原重徳東下」 「公武合体派勢力の後退と島津久光の退京」薩摩藩日誌文久2年


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